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演劇 2011年12月4日 やわらぎホール(学習院大学)
今回のコンドルズのステージを非常に興味深く観ることができた。コンドルズ公演と銘打ってはいるが近藤良平と石渕聡の2名のみのステージ。彼らは丁度自分と同年代と言う事もあり世代的にも共有するところは多いのだろう。
最初はCCC(コンドルズ コレオグラフィー コンペティション)の表彰式をするとは知らず、その様子を見て、ややしまったと思ってしまった。(コンドルズはコアなファンが多いようで、見に行くとなんとなくアウェイ感がある)
が、それはさらっと済んで、10分の休憩後2人の即興舞台が始まった。
やる事が決まっていないのでどうなるかわからない、と近藤の弁。シャンソンを歌う、という近藤の宣言で始まった。その後はおでんを挟んだ二人の会話劇が続く。本当におでんを食べながらの話でこちらまでおでんが匂った。テンポをずらした会話は途中で本人たちもまどろっこしくなり通常のスピードに変わる。
ファンにはおなじみのスタイルの様で、まわりはみな爆笑しているが自分はあまり笑えず、なんとなく居心地がわるいコメディ(のような)会話だった。
その後二人が演奏し、次にお題(キーワード)を舞台に投影し、それをテーマに近藤が踊り、石渕が演奏するスタイルで即興舞踏演奏が始まる。ここで石渕は一見ナゲヤリというか、近藤を挑発するかのような演奏を行う為、お題の表現は主として近藤の舞踏にかかってしまう。(近藤は時々抗議のそぶりを見せていた)意図的なのか、踊りながら苦し紛れの様に言葉で説明的なセリフを使ってしまう。しかし、一連の流れで許せてしまう(つまり見ている方もお題を知っているだけにもどかしく感じる)タイミングで発する。
たとえば「奇跡」というお題でモーゼの海を渡るシーンを表現しようとした時など。
「B-BOY」が一番のっていたように思えた。「幽体離脱」も苦労しながら(?)もなんとかやりおおせた。このあたりから場のテンションが上がっていく。自分としては、この方法を二人の間で担保するものは何なのか、という少々疑問めいたものを抱きながら見ていた。
その後、観客を舞台に上げて、近藤がシャンソンに合わせ、女装(胸につめもの)をして踊るのだが、シンプルながらフェミニンな衣装(と近藤の色気か)で意外にも女性的な舞踏となり(しかもそれもユーモラス仕立てで笑いをとりつつ)、最後は胸の詰めモノが林檎である事を披露し、相手に一つあたえ、自分も齧りつつ舞台から去る。これも何かの象徴か、と思ってしまうが、同時に何も考えていないような気もする。
曲はD・ボウイの「Life on Mars 」をフランス語で女性シンガーがカバーした曲だった。
その後、近藤の長い棒を使った軽いコント(?)があり、石渕のアフリカンドラムによる近藤のシリアスな舞踏で場はクライマックスへと向かう。近藤の圧倒的な身体表現がここで解放されていた。(個人的にはむしろ、ここにある種の笑いを感じたのだが)。
ここで終わらないのがコンドルズ。これでもかのサービス精神。
その後ユーモラスなピアノの連弾があり、近藤が弾き始め、石渕が強引に参加し(ピアノは一台)二人がくんずほぐれつ演奏は続く。これは腐女子のおっさん萌えにクルのではなかろうか、BLネタを提供しているのだろうか、と思わせつつ、そのうち近藤が抜け出て舞踏を舞い、最後に「三本脚の牛」とセリフとポーズを決めて舞台は終わる。
と、やはりまだまだコンドルズ。
挨拶のあとに、一曲披露。ジョン・デンバー「カントリー・ロード」。
ギターの演奏の前に、2人が同じアパートでの下宿時代に夜な夜な演奏や踊りを繰り広げていたエピソードが語られる。そこで非常に合点がいった。
彼らのベースはそのノスタルジックな下宿の時空にあり、そして現在のこの舞台に続いているのであろう。そこから醸し出される同時代感覚に自分が共鳴したらしい。
昭和を舞台にした物語が、それを知らない若い世代にすら郷愁を呼び覚ますように、未視感(ジェメヴュ)を与える根源的なパワーが彼らにはあると感じたのだった。
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