通常はあまり語らないし、言葉にし難いものではあるが、1Q84を読むと何か自分の中で言語化せずにはおれない欲求が発生する。
村上春樹の小説はほとんど読んでいるし、初期のあのデタッチメントの空気感に共感を覚えた故、「ダンス・ダンス・ダンス」後の作品はあまり熱心に読んではこなかった。
要は作中の主人公「僕」に共感し、それ以降の流れにはあまりノレなかった。
いわゆる、あるアーティストの初期のファンがアーティストがメジャーになってゆくに従って「昔はこんなじゃなかったよね」という拗ねた感情をもつアレみたいなものもあったのだろう。
だが「1Q84」は、かなり意図的に自作の過去の人物造形を投入し、そういった初期からの読者の意識の再編の要求しているように思える。
選ばれている言葉は平易でありながら、多義的かつアナロジーにあふれている。
僕にははっきりと感じる。
彼は全身全霊を傾けて「何か」に向けて言葉を紡いでいる。(感傷的な表現はしたくはないが)それは文字通り身を削りながら絞り出すような言葉であるように思える。
小説の一部を抜き出して論じる事は、僕にとってあまり意味が無いように思える。
身体の部位(たとえば「腕」が「このあたり」というような)を大体指し示す事は出来ても、実際に切り取るための境界が特定できないように、小説のフレーズを取り出しても何か違和感が残ってしまうだろう。
取り出してしまった瞬間に、別のものになってしまうようなもの。
それにもかかわらず自分が反応した箇所を切り出してみたい欲求がある。
しばらくは解剖のような「腑わけ」をしてみたいと思う。
それが目的もなく、どこにも辿りつかなかったとしても。
(続く)
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