2012年2月26日日曜日

ハギエンナーレ 記憶のモニュメント


築50年以上の木造アパート「萩荘」が解体に向けて閉鎖される。
ここ数年は東京藝大生の住居およびアトリエとして使用されていたとのことだ。

建物の閉鎖前に、その場を展示空間として開催されている展覧会が「ハギエンナーレ2012」だ。

古い場に存在する「時間の集積」という力に対してどうアプローチしていくかがこの種の展示の一つの見どころであろう。
それは住んだ場所に対しての愛着であったり、歴史の醸し出す雰囲気だったり、時間をかけねば作り上げられない経年変化だったりと様態は様々であるが、往々にして置かれる作品そのものより魅力的だったりもする。

はたしてハギエンナーレはどうか?

萩荘、というオブジェクトが作りだす空間の印象は奇妙な簡素さ、というべきか。
個別の作家性はイイ意味でもワルイ意味でも消失し、萩荘というオブジェクトに回収され、ハギエンナーレという時空間として成立しているようだ。

破壊される建物を使用するのであれば、ある種の破壊行為を創造的行為に結びつける事が考えられそうだが、あまりそういった行為は目につかない。
ウェットにならず、作家たちの静かな感情がそこに置かれているように感じられる。

話が飛躍するが、その静けさは、もしかしたら物心がついた頃からパーソナルコンピュータがツールとして存在した世代の感覚の表れなのかもしれない。
重要なのはハードウェアではなく、そこに存在するデータである。
ハードウェアが使えなくなったり、古くなったら新しいものに換えればよい。
古くなったハードウェア(萩荘)から新たなハードウェア(新天地)に乗り換えるのは肯定されるべきことである。
そういったドライな感覚が存在するように感じる。

とはいうものの、古くなった「モノ」の破棄は何らかの心理的負荷をもたらすはずだ。
それを鎮めるのは儀式であり、忘れずに記憶にとどめておく、という事が鎮魂の手段に他ならない。
死者を忘れ無い事が死者を弔う最良の方法のように。

萩荘を記憶のモニュメントとしてとどめておく事が「ハギエンナーレ」という一種の儀式なのであろうし、それは十分に達成しているだろう。
萩荘は住人達に十分に愛されていたのだ。



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